今年一年を振り返って [雑感]
今年は特にこのテーマを思い寄らずにはいられません。11月末に愛犬を失い、気分が落ち込んでいる内に総括しなければいけないと思い込んでいます。自分に起こったいいこと悪い事を総括して来年を迎えたいと思ったからです。
前回のブログで「Echotama」さんから励ましのお言葉をいただきました、心より御礼申し上げます。
さて本題ですが 春先に永らくイモリのように張り付いていた我が家の長女が結婚して家を離れました、残念ながらコロナ下であったので結婚式は行うことが出来ず、新婚旅行にも行けず可哀そうなことになってしまいました。そして件の愛犬が俄かに調子を崩して病院通いになってしまいました。良い事悪い事行ったり来たりです。
夏を迎える頃、先輩である知人の訃報が届き驚くとともに、ここ暫くの無沙汰を後悔しました。夏本番の頃には入院をして暫しの加療で小休止です、これは良かった方です。9月になると娘の新居が突然の立ち退き通告で、随分と右往左往したものです。こちらは納得の行く解決となり心配は払拭されました。10月に入ると会社で同僚だった同じ年の友人が亡くなりました。これも突然の訃報でしたが九州に住まわれて居たので弔問にも行けず残念なことでした。何と言っても同じ年の友人を失うとショックは二倍です。
そして11月には愛犬をこの手の中で失いました。同時に愛犬の危篤と2回目の資格試験日が重なり、またも不合格となりました。12月には原付バイクを運転中交通違反で罰金と点数を加算され、ゴールド免許を失いました。何だか踏んだり蹴ったりの年回りですね。
ここまで色んな事が立て続けに起きるので、さすがに運勢の本を読みました。人生にとって運は大切です、「親ガチャ」で運に触れましたが衰運の時と盛運の時があるのは自明です。自分の運勢を読み解くとここ2~3年は衰運でした。運のせいにするつもりはありませんが、そのように考えると随分と気が楽になり、来年からの飛躍を期待できるようになりました。なのでここに文章で総括しておくことが大事なんだと思いました。
総括ですが一言で言えば「惜別」の歳でした。
失った友垣に「今までありがとう」と切に感謝申し上げます。
追悼 我が家の愛犬シンバ号 [雑感]
ついに今年最後の月 12月になりました。いい古された言葉ですが「一年があっと言う間」でした。愛犬シンバが天国に旅立ち1週間が過ぎ、人間で言うなら初七日ということです。このブログでも報告しましたところ「tomi_tomi」さんから丁寧なお見舞いと励ましの言葉を頂き感謝申し上げます。
独白です、つまらない事を書いて申し訳ありませんがこれも私の人生の一部分ですので
「シンバ」は犬種パピヨンでした、小型犬に属する少しスピッツに似た犬種で耳が蝶のように大きいのが特徴です。オスの割にはひどく臆病な犬でした。二階に上がる階段が昇れないダメ犬でしたが
長い時間我が家族と同居して多くの癒しを与えてくれました。
「いままで ありがとう」 心から追悼します。
今年に入ってから内蔵が悪くなり療養食しか摂れませんでした、食べたい物も食べられない毎日でした
これが何とも可哀そうで心残りです。
今年あった様々な事どもについて一年を総括しなければいけないと勝手に思い込んでいます。
タグ:パピヨン
悲しみが止まらない [雑感]
昔の流行歌の歌詞にこのようなフレーズがあったことが思い出されます。
つい先日我が家に永らくいた愛犬がこの世を去りました。年齢は15歳7カ月でした。人間で言うなら78歳ぐらいでしょうか。寿命を全うしたというならその通りですが、家族としては何ともやるせない日々です。我が家は4人家族+ワンちゃん2頭でここ20年程暮らしてきました。最初の変化はワンちゃんの1頭が天寿で天国に行きました、その後息子、娘と結婚を期に家を出て行き、今は残りの愛犬と妻・私の3人暮らしでした。しかしこの度の愛犬の旅立ちで夫婦二人きりになって、何とも淋しい状況になってしまいました。
今回の愛犬の喪失は6カ月程前からの体調不調が原因でした、最初は腎臓・膵臓・心臓が弱っているとの診断で、ほぼ毎日の点滴治療と病院通いで危機は去ったかのように見え、4ケ月程経過しました。しかし2ケ月前、急にふらつき始めて歩けなくなりました、これはレントゲンで確認すると脊髄椎間板が2ヵ所潰れているということでした。こちらはステロイド投与でかなり改善して、ふらつきも収まり歩けるまでに回復してきていました。これが1週間前、急に動けなくなり一日中吠え続けるという異常状態となりました。ドクターは小脳に腫瘍が出来ている可能性があると話していましたがMRI を撮っていないので確定できないという見立てです。取り敢えず痛がってもいるので痛み止めと鎮静剤で抑える治療が始まりました。それでも吠え声は収まらず薬を徐々に強くして行き・・・治療はこれまででした。
もう水や食物を飲み込むことが出来なくなり、鎮静剤による緩和治療となりました。ついに4日目に亡くなりました。最後に名前を呼んでやると聞こえるらしく首や息で返事を返してきました。
最後は妻の腕の中で・・・・
最後の息を吸い込み絶命しました。
ほどなく阿吽の呼吸という言葉が頭に浮かんできました。阿吽とはお寺の門にいる2体の仁王様の口が阿と吽 の形をしていることからの由来です。宗教的な解釈は解かりませんが阿形は 人間は生まれた時「あ」と息を吐き出して生まれてくると言い、吽形は 死ぬ時息を吸いこんで命を閉じて行くことから 人間の一生を表現しているとか。
我が家の愛犬も命を閉じる瞬間息を吸い込んで逝きました。
動物も人間も同じなんですね。これは私の勝手な言い方ですが 阿吽とは 人間の一生をこの二字に凝縮されたのだと思いました。どんな人間また動物でも生まれて来る時と死ぬ時は同じなんだと理解しました。長いと思える一生も阿吽のひとときで終わるんだとつくづく思いました。
古墳時代泣き女が居たとか・・・慟哭して弔ってやることがせめてもの手向けです。
どうも我が家に15年以上いた同居家族の喪失をこの一文で終わることは出来ません、思い出をまた次回綴ってみたいと思います。
続 親ガチャ 作家松本清張の場合 [雑感]
親ガチャに外れた清張先生の続編です。めでたく朝日新聞に入社した清張先生ですが困窮は続きます、その内戦争も酷くなり徴兵されて軍隊生活を送ります、兵隊は序列階級社会ですから娑婆の地位や生まれ、学歴による差別はありません。そんな軍隊生活は意外と暮らしやすかったようで、ここでは生活の為に働くことはなく、ひたすら軍務に精励していったのです。
ここでも運は大きな岐路を示します。清張先生が派遣された場所は朝鮮半島で、ここは南方戦線に派遣される中継基地だったのです。しかし補給船の目途が立たず朝鮮半島で終戦を迎える事ができたのです。本来であれば南方派遣軍に組み込まれて生還は難しかったかもしれません。
清張先生は終戦で日本に帰還し会社に出社しますが仕事はなく、週2日の買い出し休暇が認められてアルバイトをします。そこでホウキの卸営業を始めます。この営業は折からの物不足でかなり成功しますが同時にハイパーインフレに見舞われた日本では多少の収入増では追いつかなかったようです。終戦から少し経つと物不足も解消の方向に向かい、ホウキの卸販売も次第に需要が無くなり、一方会社の仕事が忙しくなってきます。本業に復帰した清張先生 デザイン版下製作の仕事は増えていきますがうだつが上がらない事は明々白々となっていきます。この頃既に40近くなっていたと述懐しています、この時代の清張先生はやり場のない焦燥感と絶望感に苛まされていたと書いてます。
このようにいつ果てることのない生活苦からの脱出は昭和25年にやってきます、この時週刊朝日に懸賞小説の募集が載ったのです。賞金は1等30万円、3等10万円、当時では最も多額な賞金でした。元々小説には無関係な自分だと認識していました。しかし若い頃から文学作品を読むことだけは寸暇を惜しんで読んでいたようです。この時も百科事典で調べものをしていて「西郷札」の項目を何気なく読み、その解説から一つの空想が浮かび着想を得たと述べています。賞金欲しさにこの空想から小説を書き、応募したものが3等に入選し賞金10万円を獲得します。これが処女作「西郷札」、この小説が直木賞候補となり文壇デビューとなったのです。
この後2作目「ある小倉日記伝」が芥川賞を受賞して作家の仲間入りを果たしていくのです。親ガチャに外れても必ずしも人生が真っ暗でない一例ですね。時代が違う事は充分に承知しています、ガラガラポンした戦後にはチャンスは多かったのも事実です。現代のように閉塞した時代で這い上がることは至難ですが「親ガチャ」が全てとは思いたくありません。
ちなみにこの時獲得した賞金は何に消えたか記憶にないと書いてます。
親ガチャ [雑感]
最近テレビでこの親ガチャ問題について取り上げていました。親ガチャとは「自分の生まれや家庭環境を選べない」と言うことだと理解しています。要は生まれ籤に外れたということですが人生は運であるということも事実なのでそう思うことも大いにあると思います。しかし大なり小なりほとんどの人が思うことも事実だと思います。
先日松本清張先生の「半生の記」を読みました。ここには清張先生が大いに当世風に言うなら「親ガチャ」外れだったことが書かれています。清張先生の親ガチャ外れは根が深く、自分の父が生まれながらにして親ガチャ外れだったことから書いてます。清張先生の父は「松本峯太郎」と言い、この方は生まれて直ぐに里子に出されます。中国地方の中農に生まれた長男が里子に出されて次男が当主を引き継ぎます・・・一体何があったのかと訝しぐ状況です。この後父親は中国地方を離れて諸国を転々とし最後に九州小倉に落ち着きます。しかしながら一家の生活は貧乏のどん底を味わい、食べることだけは細々と生活できたようです、清張先生も20代で一家八人の生活を背負うという悲惨さだっと記しています。
著書「実践的人生論」では学歴のコンプレックスについては両親から引き継いだものとし、高等小学校卒という学歴については親の甲斐性の無さを嘆いていますが親を恨んではいませんでした。清張先生は明治生まれですが、この時代で既に学歴差別が就職や人生設計に多大な影響を与えています。学校卒業後一家を助けるべく電気メーカーに就職します、20歳頃にはリストラに会い失業します。その後印刷職工を目指して印刷屋に再就職します、20代を過ぎるともうどこにも新しい求人口はないと書いてます。しかし「印刷職人でいる限り決して浮かび上がれないことも自覚した」といい、そして「果たして小学校出の自分に何が出来るのかと常に自問自答していた」と述べています。その後この印刷屋も潰れて朝日新聞小倉支社に雇員として就職します。この就職も決して晴れ間や運が開けたというものでは無く、この時代の朝日新聞では雇員・準社員・社員の職階があり雇員は良くても準社員止まりで社員にはなれなかったようです。この職階は学歴によって規定されていて、支社長は本社から転勤できて直ぐに栄転していきますから「雇員程度には声も掛けない」と書いてます。
ただ言えることは運は平等に配置されていると思われることです。それを掴むか離すかは本人次第と思います。
そして一生涯終わってみれば案外運よく生きたものと思われることだと思います。
台風通過中に考える江戸と明治 [雑感]
政治が破綻しました。激しい権力闘争の末に現職総理が事実上の退任、自薦他薦の総裁選へと突入!コロナは少し和らいでいますがレームダッグの政権になってしまいました。これから2ヶ月弱 空白状態です、実に心もとないですね。
さて唐突ですが「明治維新をどう捉えるか」 色々あると思います。私見ですが 明治維新とはある一面では田舎の成り上がり者が江戸時代の一切を土の中に埋めてしまった、そんな風に見えます。廃仏毀釈は何の目的で、文化的な一切の物を断捨離したのか?失われて今や想像でしか分からない数々の事柄、明治維新はかなり罪深い 時代の断絶だと思います。司馬遼先生は明治維新を高く評価していますが これは見方の違いなので色々意見のあるところです。
この失われた物の一つに 体の使い方で不明な部分があります。まず歩き方です。今の歩き方は腕を交互に振ることで溜めを作って歩きます。これは西洋式行進方法です、江戸時代はちょっと違っていたようです。武士は二本 腰に刀を差していますから手を交互に振って歩くことはなかったようです。早く歩く為には刀に手を添えて歩いたと想像します、これはもう想像でしかありません、今はもう失われた物の一つです。何故江戸時代の人は一日日の出から日暮れまで歩けたのでしょうか?体力が違う、歩き方が違う 色々と考えられます。腰に刀を差して長い距離歩くのは背中に荷物を背負うよりキツイかもしれません。ある本では神速歩行術なるものが存在したと推測しています。同体同側歩行が普通だったという説もあります。要は体重移動を上手く使って、疲れない歩き方をしたという想像です。
次に失われたものが剣術です。今や古流として命脈を保っていますが、江戸三百余流と言われるほど隆盛を誇った剣技ですが廃刀令で全て霧消しました。今残っているのはその内の僅かです。このような伝統的な文化の否定によって明治維新が行われました。残念なことです。
しかし文化まで否定するのはいかがなものかと思う訳です。
続編 Eバイク [雑感]
一年程前に電動機付き自転車を購入した件を掲載いたしました。その時あまりに嬉しくてこの延長線上にクロスバイクがあり、いずれクロスバイクに挑戦して東京湾一周チャレンジを計画したいと思いを馳せていました。
しかしそれが何と馬鹿げた計画だということを図らずも自覚したのです。そこでもうこの計画はあっさり捨てました。何故なら片道10k程走っただけで、その距離に嫌になったのです。疲労もありますが一般車道を走るのはそれなりの体力と根気がいるのです。
そこで考えを変えてラクな方にシフトしました。原付バイクの購入です。これはもう4月に発注しまして7月には納車されました。これで活動距離が自転車の2倍以上になると大変な期待を寄せました。今は慣らし運転の真っ最中です。しかしこれはこれで欠点が見えてきました。速度制限30k 買物や街乗りは便利ですが10k以上の中長距離になると塗炭に大変です。左端通行の義務と速度制限 馬力等大変な危険を孕んでいるのです。昨今のサイクリング自転車は40kぐらいの速度を出してきますので追い抜かれたりもするのです。これが怖いのです。またママチャリの左側からの飛び出しや大型トラックの追い越し等で風圧に晒されます、二段階右折の規制等 危険この上ない代物でした。
もう考えの変更を与儀なくされてきました。大まかな路線を継承しつつ若干の修正を加えます。普通二輪の免許を取得してバイクをグレードアップすることを企図しました。この年で免許取得は危険地帯沼に足を踏み入れることになるのか ちょっと大きな冒険になりそうです。でもインフラ活用を最大限する為にはこの決断しかないと思っています。
そこで先日自動車教習所に行ってまいりました、これが「恐れ入りやの鬼子母神」で何と教習5ヶ月待ち だそうです。今入校手続きをすると教習開始は12月だそうです。
めまいがして来ました.
そんなこんなの新しい時代の幕開けです。
りんごの木を植える [雑感]
この言葉は最近主治医からもらった言葉です。「そう思って人生を送れ」というエールのような覚悟のような。年齢を重ねると中々味わいのある言葉だと感心しました。
まだだいぶ若い頃、自分の会社の重役さんのカバン持ちをやっていたことがありまして、この方から社会通念やら色々と教わりまして今思うとかなり感謝しています。或る日この方が病気になりまして、週3回 奥様の病院通いの送り迎えを3カ月程しました。その病院こそが今お世話になっている病院なのです。勿論今とは佇まいが全く違っていますのでその当時の面影はありません。まさかその病院に30年以上経ってお世話になるとは思いも寄りませんでした。最初この病院を紹介された時、えーっと!思いました。でも選択の余地はありませんでしたので言われるままに赴きました。まさかもう10年になりますが、これ程長い期間通うことになるとは思っていませんでした。
中々この病院での思い出は深いものがあります。「坐骨神経痛」という病気があります。この病気に罹った時、この病院でも診てもらいましたが朝8:30に受付をして診察は17:00でした。そして診察内容は「自分の免疫力で3カ月程で治りますから」と言われました。凄い病院です。このような事だけではありませんが「日本一の病院」だと確信しています。
まだまだ長いお付き合いになると思っています。人間はこのように運に左右されているとほぼ確信しています、「貧乏・富裕・健康」人生の全ては本人とは無関係な処で舵が切られているのかもしれません。
ちなみにこの病院へは松本清張風に表現すると
オリンピック開幕 [雑感]
先日、我家の上空をブルーインパルスが飛んできました。ご近所の方々もベランダに出て上空を撮影したり見ていました。当然我家も首を長くして見ていました。近所のビルの屋上では絶景で見ている若者が居て羨ましく思っていました。
1964年のオリンピックはまだ小学生でしたのであまり記憶はありません。その頃開発が急ピッチに進んだ事は憶えています。近くに片側2車線道路が作られ、オリンピック道路と呼んでいたのが印象に残っていることぐらいでしょうか。もう一つ男子100M競争で日本の飯島選手がロケットスタートを見せてくれること、そして「黒い弾丸」アメリカのボブヘイズが10秒0を出すこと、この2点が話題だったのも憶えています。結果はヘイズが10秒0で優勝、飯島選手は残念ながら決勝に進めませんでした。
無観客のオリンピックが開催されて数日が過ぎ、日本選手の金メダルも順調に獲得出来ているのでしょうか、よくわかりません。でもやはり盛り上がりは欠いているような気がします。
その反面感染者は凄いスピードで上がり始めました。若者達が渋谷等の繁華街に繰り出して酒を飲んでいることが連日報道されています。これは仕方が無いでは済まないのでしょうが、こんなものだと思います。若者たちのエネルギーはもう限界に来ているのです。長い自粛生活は彼等には酷なのでしょう 「八月の濡れた砂」という映画が昔ありましたが、この映画には若者の狂気や弾けるエネルギーが見て取れます。何もなくてもあの映画に描かれた若者像はリアルな若者像なのです 「家に居ろ」では歯止めが効かないのは自明の理だと思います。
ちょっと一服
ブルーインパルスを撮影しました。
病院というところ [雑感]
まあ少し気になるところがありまして 先生も「それなら今のうちに処置しておいた方が後回しにするよりはいいでしょう」ということで入院ということになりました。午前中の入院が決まりのようで朝入院しました。入院の日は何もすることがなく、せいぜい院内コンビニに行くことぐらいしかありません。看護師さんも体調を整えておいて下さいというだけです。きっちり食事は出てきますし、食後はベッドの上で看護師さんの来訪を待ちます。血圧やら体温やらの測定があるのです。院外への外出は禁止、シャワー時間は16:00終了で予約制でした。新規入院の人は予約がないのですぐシャワータイムです。そんなこんなで一日が終わりました。
部屋は四人部屋でお互いカーテンをしていますのでほとんど顔を見ません。21:00消灯 6:00起床の病床フェーズが始まりました。良く寝られたのか分からないような起床を迎え、ルーティンの体調測定が終了すると朝ごはんです。これも終了すると慌ただしくなってきました、手術着に着替える指示が出ました。
本日3件目ということで 12:30手術室へ自分で歩いて向かいます。付き添いの看護師さんは手術室まで、そこから手術室看護師に交代です。暫く待っていると手術室スタッフ 麻酔科看護師やら先生やら挨拶に来まして、痛くないようにしますと約束してくれます。担当看護師さんはOさんでした、前に入院した時の手術室看護師さんもOさんでしたので関係があるのか聞きましたら 何と今回のOさんの先輩でした。随分懐かしそうにしていましたがこちらはかなり緊張していて会話も途切れがちです。間もなく手術台の上に載せられ麻酔が点滴で入りますようと言われて・・・もう意識ありませんでした。次に起きたのは手術終了した旨の確認で起こされた時です。朦朧とした中病棟へ ベッドに戻されました。
ここから格闘扁に突入です、痛みはひどく無いのですが体は固定されていますので真夜中には腰が痛み出し、あーだこーだ思っているうちに長ーい夜が明け朝が来ました。朝食は無しで、水で生き返りました。手術は上手く行ったらしく診察も順調に進み、昼前に管が1本とれました。そして昼食が出ました、すごいスピードです。それから体調測定が済むと直ぐに体拭きやら終えて歩行訓練が始まりました。
かなり順調です、同室の方々には申し訳ないくらいです。新規の患者さんが入院してきました、声だけ聞こえます・・・癌を患っているようで手術で取り切れず、抗ガン剤治療での入院のようでした。凄い精神力です タマゲマシタ、全然明るいのです 未来はまだまだという感じで話していました。
本当の病気と闘病について知らなさすぎる自分を見つけた思いです。
今回は2回目の入院でしたが順調な人生に向かっての再出発と思いを定めました。
今は自宅にてリハビリ中。
数日間の入院でも体力はかなり落ちました、患部の痛みが取れるまで暫く隠忍自重の日々です。