多摩の横山と防人 [旅行]
大意 「赤駒を山野に放して捕えかねて、あの多摩の横山を歩いていかせるのでしょうか」この歌は妻の出征する夫に対する切ない思いを歌っています.
作者は東京都豊島郡椋椅部(クラハシベ)の荒虫の妻で宇遅部黒女(ウヂベノクロメ)という人です。椋椅部荒虫(クラハシベアラムシ)は豊島郡上丁と記されていて、上丁(かみつよぼろ)とは部隊長のようです。したがって「防人招集で部隊長として出征する夫に馬も手当できないで行かせるのは何と切ないことか」という嘆息のような歌だと理解できます。ちなみに、防人は馬で行くことは許されていたようで、ルートは大阪難波まで徒歩で行き難波から船で博多に向かったようです。この乗船地で迎えるのが兵部少輔防人管理人大友家持だったようです。
万葉歌碑巡りは多摩の横山を歩きました。多摩丘陵は武蔵野の国府から眺めると横に長く連なる山々で、夕暮れ時にシルエットとして浮かぶ姿は万葉時代から眉引き山などとも言われていました。
ここに防人の歌碑があります、防人は主に東国から徴集された九州筑紫の守備兵で、西暦663年朝鮮半島で動乱が起こり大和朝廷は百済に援軍を出し、唐・新羅連合軍に破れます。これが「白村江の戦」、この敗戦によって唐・新羅連合軍来襲防備の為、全国から防人を徴兵した訳です。この防人の歌を集めて万葉集に採録した為、万葉集は庶民から殿上人まであらゆる階層を網羅した歌集となったのです。さて、防人とはサキモリと読み「埼守」の義で海辺を守備する兵士を言い、九州北岸・対馬・壱岐の二島を守備します。任期は三年で毎年三分の一が交代し、主に東国から徴兵して平安時代まで続きました。概ねの派遣人数は1000人を交代させたと記録にあります。
「鎌倉殿の13人」は毎回楽しみにしています、この多摩の横山の直ぐ近くを鎌倉街道上道が横切っています、この道を「畠山重忠」や「新田義貞」が鎌倉目指して軍を進めたのでしょうか?
そんな物思いに耽っていると鶴見川源流地がすぐ近くにありました、鶴見川は新横浜を経由して横浜鶴見まで流れる大川でNHK「さわやか自然百景」で特集された河です、早速立ち寄って確認
福岡の親戚から一報、秘かに楽しみにしていた台風は何事もなく知らないうちに山口沖に去ったとのこと
当方は「さあこれから!」と意気込んで雨の一日やることもなく まったり
想像は時空を超えています。
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