武という字 [雑感]
ニュースや新聞はロシアとウクライナの戦争一色に染まっています。民主主義と専制主義の勝利の行方と戦後世界の枠組みについて激しい論争が続いています。日本でも元首相が核軍備の議論開始を呼びかけたり、元大阪知事はウクライナの政治学者とテレビで大喧嘩していました。祖国防衛と国民の命という重い問題を簡単に議論出来るべくも無く、個人の自由と国家権力の天秤等という個人の内面的な問題をテレビで言い争って、何か意味があるのかと思うような出来事が頻発しています。私の世代では戦争は悪であり、戦争をもたらす軍事強化には否定的な平和教育を受けてきました。しかし「気違いに刃物」という諺がありますが、もしこのような状況になったならどうしたらいいか等という教育は受けてきませんでした。
凡そ政治家、ましてや一国の国家元首になろうという優秀な人達は間違いを犯さないバランスの取れた人格者であろう、という思い込みがあります。それがこのような状況になって判断喪失となっています。勿論幾多の元国家元首という人達が社会から追放されたり捕らえられたりしてきたことは知っていますが、超大国の核兵器を数千発保持する国の元首がよもや間違いを犯すことは無いという思い込みは勝手な思い込みに過ぎないと痛感しました。
さて、テーマにした「武」という文字ですが、ある先生が「武」とは矛を止むと書いて、武の本質は戦わないことだと解釈していると話していました。武道はこの武の道です。柳生新陰流の極意「無刀取り」は武道(剣術)の極意として戦わずして勝つ 剣術の行き着いた至高の到達点と聞いています。
しかしこの武の字の解釈は違うようで矛を止むではありません。これは後世に解釈されたものです。
「字統」で調べました、武は矛と止(あし)に従うと書いてあります。「あし」とは足のことです。止の字は歩くの上部分です。したがって矛と歩くが原義で「歩武」が本意です。兵隊が矛を持って歩くことが武の本質です。戦いを止めることではありませんでした。では兵隊の「兵」の字義はどうでしょうか。同じく「字統」では斧を両手に振るい上げている様相が起源で「武器を取って戦う」が本意です。そしてこの兵の字の戒めとして春秋左氏伝 隠公4年「夫れ兵は、猶ほ火のごとし。おさめずば、まさに自ら焚かんとす」と掲載され、「字統著者 白川静」は今の時代に最も適当な言葉である と結んでいます。
自らを守る為に全身鎧に身を包み出兵することで平和を実現できるのでしょうか。紀元前700年代に書かれた春秋では兵を収めるのは君主であると言っています。
今こそ各国元首が知恵を出し合うしか収束は無いと思います。
そうしないと「破滅」が近づいてきます。
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