ノモンハンの夏(1) 半藤一利 [本]
コロナが猛威を振るっていますが、半藤先生は現在も旺盛な執筆活動を展開されています。今回はこの戦記物をご紹介したいと思っています。理由は夏がいよいよ始まり日本人が戦争について深く考える季節になって来たからです。
「ノモンハンの夏」は1939年5月から9月に起こった「ノモンハン事件」についての考察本です。
丁寧に当時の国際情勢と日本陸軍参謀本部の意思決定を時間軸を辿りながら解明していった意欲作です。
この歴史的事件を司馬遼太郎先生も小説化したくて、当時の旧日本陸軍の高級将校を戦後訪ね歩き取材旅行したことはエッセイ等でも書いてます、しかし小説化しませんでした。
司馬遼先生が書かなかった理由は次回考察してみます。半藤先生はこの事から自分が代わりに作品化してみるとの思いを強く抱き執筆したものと理解いたします。
この戦争の概要はウイキペディアで確認できますが、この戦争から日本は太平洋戦争へと続く長い戦争時代へと突入するのです。
この戦争を簡単に言うとモンゴル・ソ連連合国軍と日本陸軍との国境紛争事件ですが、事件とはかけ離れた総力戦へと発展した大会戦となりました。人が住まない大草原地帯に日本軍15000人とソ蒙軍団50000人による大戦争となったのです。ソ蒙側は戦車800両を擁する機械化部隊を展開、日本軍も戦車・飛行機・火砲と保持している近代兵器を繰り出しての戦いとなりました。ソ蒙側の総指揮官は東部戦線で勇名を馳せたジューコフ中将、日本側は第23師団小松原中将に関東軍参謀辻正信少佐が作戦立案という対決になりました。結果は日本側の惨敗という結果でした。昨今負けていないという主張もありますが日本側の定めた国境線を保持出来ずソ連側の定めた国境線に押し戻され23師団は損耗率78%で全滅状態、ソ連軍の損害も日本軍より遥かに大きい20000人以上とされています。
スターリンはヒットラーとのポーランド分割交渉から日本側を国境から駆逐したことで追撃を行わず、日本陸軍参謀本部もこれ以上の兵力投入を避け「ノモンハン方面国境事件の自主的終結を企図ス」として作戦を中止しました。この時作戦中止命令後に辻参謀は「戦争は指導者相互の意思と意思の戦いである・・・戦争は意思の強い方が勝つ」と記しています。これでは負けたと認めない限り負けたことにはならないので武人としての矜持がありません。やっぱりこのような指導者が戦争遂行したのですからその後の数々の戦役の出発点となったということは否定できないですね。
それでは何故半藤先生はこの戦争を作品化したのか?それはこの戦争の作戦指導者達の愚劣さを書きたかったからです。戦争の総指揮官小松原中将は事件後予備役に編入・・責任を取らされて引退ですね。しかし酷いのは最前線の指揮官(部隊長クラス)達が自決か戦死で処理されたことです。勇敢に戦った指揮官・兵士について敵方ジューコフ中将はモスクワに凱旋した時、日本軍の下士官兵の頑強さと勇気を心から賞賛したといいます。半藤先生は責任を取るべきは戦争を始めた関東軍参謀本部の高級将校と言ってるのです。この後この高級将校達は順調に出世をしていくのです。作戦立案者辻参謀はガダルカナル戦の作戦立案にも参加してますが、関東軍参謀本部作戦課長服部中佐は陸軍参謀本部作戦課課長に栄転、辻少佐も陸軍参謀本部作戦課班長に栄転 その後の日本の未来の命運を握るのです。ハラを切らされたのは現場の責任者で、エリート達はその屍の上に跳梁跋扈していくのです。
何か今の世も同じことが繰り返されていますね。
半藤先生は陸大卒の60年間の輩出者3485名 このうち参謀本部に集結した者はエリート中のエリートとしています。
司馬遼先生は事件の取材の中でこのようなエリート達の意識を垣間見て書く気が失せたのではないでしょうか!
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